昭和41年06月01日 朝の御理解
信心をしておって、変わったことが起こってきたら、おかげと心得て信心せよと。ここのところの信心が出来ると有難いですね。信心をしておって、変わったことが起こってきたら、おかげと心得て、おかげと心得れれるまでの信心が必要だということになるのです。ね。おかげと心得られない。ところが、段々、信心の稽古をさせて頂いておりますと、それがそう心得られるようになる。ね。
信心をしておって、変わったことが起きてきたら、おかげと心得て信心をせよ。これはおかげだと。これはおかげ頂くぞといったような風な頂き方なんです。ね。そこに、いわゆる、信心、本当の信心。信心をしておってと仰る、その信心が、いわゆる、本当の信心になってこなきゃいけん。いよいよ、神様を信ずる心と言うものが、集まらなければ、なかなか、そう思えない。ね。
そこでその、次の御教えにありますように、信心するのにどうしてこのような事が起こってきたであろうかと言うときには、もう信心は留まっておる時。もう信心は留まっておる。これはまぁだ信心が足りぬからだと。一段と信心を進めていけば、そこからおかげが受けられるとも仰る。だから、ここのところをですね。が前提でありそして只今私が、始めに申しました御教えのところに、入っていかかなければならない。
信心をしておって、変わったことが起こってきたら、おかげと心得られるというところ。ね、おかげ、これは、おかげ頂くのに違いは無い。これで、神様がお徳を受けさせてくださるに違いはない。ね。だから、そこんところが分からせて頂いたら有難い。ね。ところが、なかなか、そこはやっぱり、一時、二時の信心では、そう心得られない、ね。それが、問題が問題であったり、事が事であったり致しますと、やはり、どうしてと言った様な心が起こる。
だから只今申します御理解、御教えのその前提としてね。信心をしておってどうして、このような事が起こってくるであろうかと言う時には、もうその信心は留まっておるんだと。ね。これはまぁだ、私共の信心が足りんのだと。私の信心が足りんのだと。そこからです。そこから一段と言うならもう本当に、苦しいけれども歯を喰いしばってそこを一段と、今まで出来なかった信心修行にふんぎらせてもろうて、信心を進めていくと、そこからおかげが受けられると仰る。そこからおかげが受けられる。
そういうおかげを、繰り返し、繰り返し頂いていくうちにです。なるほど教えて下さるとおりの事だなぁ。なるほど信心しておって、変わったことが起こってきたら、おかげだなぁという事が、思い込まれるようになる。そうですね。はぁこれでひと徳受けられるぞと。これで力を受けるぞと。これで一段と信心を進めさせてもらうぞと。昨日、福岡の高橋さんが、お参りして見えてから、今朝方、お夢を頂いた。
それがその、大学の試験を受けるために、まちあい室で待っている。それに、みんなその、まぁ、受験に来ておられ人達が、もうみんな自信たっぷりのごたるけれども、自分だけは、ほんに、ろくろく勉強もしとらなかったが、どうも不安でたまらん。どうでも、神様におすがりしてから受けさせてもらいよるところでその、目が覚めたと。またの表現に、そんな風におっしゃっておられる。信心をしておると、信心に身が入ってくると、お試しがありますぞと。
信心に、いわば、身が入ってくると、信心に、少し有り難いということになってくると。本当にこれが有り難いのであろうかと。本当、ほんなもんであろうかと言うてその、神様がお試しを下さる時があると。しっかり信心しなされやと、教祖はその、晩年のころはもう、この事を、みんなに仰ったということですね。信心に身が入ってくる。信心ちゃ有り難い。本当に有り難いのだろうかと言うて、神様も、いうなら、お試しが始まる。いうなら、試験が始まる。ね。
中学、高校までは、差ほどでもなかったけれど、もう大学ともなると、やっぱり、難関である。けども、あの、そこの難関を突破しなければ、大学の入学は許されない。こうならんと、高橋さん、あんたはもう、大学に、信心の大学にいって、良かったよと言うてから、まぁ、昨日、しっかりお繰り合わせをいただいて、ま、日頃の勉強の出来とろんところは、お詫びさせてもろうて、万事お繰り合わせを、いただかにゃいけんなと言うて、ま、言ったことですね。
ね、日ごろ、信心の稽古をしっかりしておったら、どういう例えば、試験に合いましても、お試しに合いましても、どっこいと受けれれる。元気で、喜びで受けられる、やはり、自信たっぷりの、一つ、受験でなからなければならないと思うですね。そこんところを、まぁ、一番初めに申しましたように、信心をしておって、変わった事が起こってきたら、おかげと心得て信心せよと。
ところが、なかなか、そこんところが、そうは頂けませんけれども、ね。始めから、そんなに信じれれる筈はないのですけれども。そこでそのまぁ一つ前提としての御教え、ね。信心しておって、どうしてこのような事が起こってくる。信心しよっても、雨は降る、風も吹くと。こらまぁこら入れとかないけん。信心しよら、良かこつばっかりと言う事はないのです。ね。けれども、そこんところがです。雨であれば雨であり、風であれば風である。そこのところを、受け抜かせて頂けれる、元気な心。
三十一日のあのここのカレンダーを見てごらんなさい。昨日の御理解は何やったかね。怖いと思うておったことは、勇気を付けてくださる。元気を出させて下さる。神様のお計らいであったと。困った事だ難儀な事だと思っておったことは、神様が全部力を与えてくださる、神様のお計らいであったと、そういう意味の御理解が出ておりましたね。あれは私が十五年前に、神様に頂いた御教えなんです。目の前が真っ黒なるような時には、いよいよ神様が、私共の心に光を与えてくださるための計らいであった。
どうしようか、足が、がたがた震うごと怖いと思ったけれども、実際、そこを通り抜けてみたら、あれは怖いものじゃなかった。私共の心の中に、勇気と力を与えてくださる。元気を与えて下さろうとする、神様のお働き以外にはなかったと。そういうことが分からせてもらえる、信心させていただきよると、段々分かってくる。そこで信心しておって、どうして、このようなといったような、後ひざりの信心では無くてです。神様がこうして、鍛えてくださるんだということにならなければいけん。
どうしてこげな事になったじゃろうかじゃ無くて、神様がこうして鍛えて下さるんだと。は熱しておるうちに打てという諺がありますね。一振りの刀を鍛え上げるためにはね、六貫目の鉄が要るそうです。六貫目の鉄が要る。それを打って打って打ち上げて、ようやく一振りの、あの例えば正宗的な真剣と言うかね、そういう刀が出来上がるということです。焼いては叩き焼いては水の中に、じゃっといって冷える、ね。
焼いたり冷やされたり、そして叩かれたり、そして行くうちに、いわばあの、日本刀の、まぁ、骨頂ですかね、真髄と言われるような、その、あぁいう、魂を打ち込んで作るところの刀が、刀剣が出来上がる。叩かれた上に、火花を散らして、段々、段々、それが減っていく。六貫目のものが、一振りの刀に仕上げられるということですから。ね、けども熱しておる時でなからなければ、やはり打たれません。
私共の信心が、有難いなぁと。本当に、おかげを頂きたいと。お徳が受けたいと。信心して、真実幸せなおかげを頂きたいとこう、願わせて頂くところから、信心の有難さを分からせて頂くにしたがって分かってくる。そこに、いわば、鍛われるということになる。それを、お試しとも言う。まぁ、良いことにもなるだろう、ね。ですから、ここんところをですね、例えば、ま、色々申しましたその、御教えをです、一貫して、ね。ものにしていかなければいけません。
現在自分は、どこを通っておるだろうか。どっこい、どのようなものにでもです、おかげと心得ていけれるだけの信心が出来ておるだろうか。そこまでは、頂けておらんにしてもです、ね。これは、まだ、信心が至らんからだと分からせて頂いて、そこから、一段と信心を進めていくだけの勇気があるだろうかと。ね。神様を、いよいよ信じる。そこからまた信じられる。信じ、信じられるそこから、神様との交流と。例えて申しますと、みなの祝福を受け、親の許しを得て、結婚を致します。
そこから、まぁ、一年ぐらい経つと、子供が生まれます。そん時、どうですか、皆さん。あすこは、もう結婚してから、もう子供さんが出来らっしゃるげな。ほんに、難儀なこっちゃろうと言わんでしょうもん。本当におめでたいと言うでしょうもん。また、こうして、四段?腹してござるとに、はぁ、きつかろう。きつかろうばってん、その、困ったこっちゃろうと言わんでしょうが。きつうありなさろう、ね。けれども、ほんに、難儀な事ですね、困ったことですねと言わんでしょう。
それは、良いものが生み出される前提だからなんですよ。ところが、どうでしょう。おい、あそこの娘さんな、このごろ、段々、腹の大きゅうなりよりなさるごたる。それこそもう、親でん、本人でも、それこそ、もうそれこそもう、(?)が包まれんごつなって来るともう、いよいよ、恥ずかしい事になるでしょうが。ね。それは、いわゆる、いうならば、本当の結合になっていないからです。いわば、それを、いたずらとも言う。ね。ふしだらとも言う。同じ生まれてくる、それだけれども、そうなんです。
そこんところを、教祖の神様は、信心してとこう仰る。信心してと、いうならば、結婚してということ、神様と結婚してということ。神様と一緒になってと言うこと。そこから、生まれてくるもの、そこから起きてくること。それが、苦しいことであっても、それは一つの、生みの苦しみなのだということ。だから、困ったこととは言わん。みんなが、祝福してです。めでたい、めでたいということの中から、良いものが生まれてくる。信心してと言うてこう。ね。だから、信心が無いならば、信心は無い、は、これもやっぱ、おかげとは言いません。
同じ例えば、そこに苦しみがあってもです。信心が無いならば、それはやっぱり難儀な事ですね。困ったことですねという事なんである。信じ信じられるもの。そこにみんなの祝福を受けての、言うなら、本当の信心にならせて頂くところからです。その難儀は、すべてが、生みの苦しみ、例えば苦しいことであっても、生む前のです。いわゆる十月十日の苦しみであるからそれはめでたい、有難い苦しみなのだということ。けれども信心無しに起きてくる難儀ならば、そらやっぱり、難儀だと。
困ったことだと。ある場合には、恥ずかしいことだという事になるのじゃないでしょうか。だから、ここんところをです、信心してと、こう言うところを、本当に大事にして、果たして、自分な、お参りばしよるばってん、信心してという事になっていきよるだろうか。信心とは、信ずる心、真心、神心とも仰る。そんなものが、神様との中に育っていきよるだろうか。そして、そこから生み出されてくるものならばです。ね。それは、思う姿勢も違う。ね。段々、先ほど申しますようなところの体験をです。
これは、まぁだ、自分の信心が足りんからだと、一段と信心を進めていくところの信心の過程と言うものを、通りぬかせて頂きよるうちに、なるほど、怖いことも無からなければ、困ったという事もないのだと。みんな、神様の有難いおかげを下さろうとする、力を下さろうとする働きであるということが、この度々の、体験によって分かってくる。分かってくるところから、次に、信心しておって、変わったことが起こってきたら、おかげと心得られるだけの信心が出来てくる。
おかげと心得て、こら、月のものが止まった。おかげいただいたごたる。ね。それが、つきをした、例えば、おうに従ってです。だんだん、お腹が大きゅうなってくる。少しは、難儀を感じてくるようになる。動きが出来なくなってくる。ね。けれども、いよいよ、それは、良いものが生まれてくることが、もういよいよ、近付いて来よると言うこと。難儀が、苦しければ苦しいほど、いわば、生み月が近付いて来よると言うこと。そのとこを大事にしていく。
そこんところで、お互いが、流産になるようなことになっては、相済まん。せっかくの、この難儀をです。大事にしなければいけん。そして、お互いが、あぁ、きつか、きつかばっかり言うて、流産になっるような恐れがある。または、流産にしてはならん。良いものを生み出させて頂いて、自分も有難いなら、みんなからもまた、祝福されてです。おかげの頂けれる道に、お互い、縁を頂いたのであるから。
おかげを受けていかねばならん。信心しておって、変わったことが起こってきたら、おかげと心得るだけの、心得られるだけの信心をです、身に付けさせて頂いたら、私共の、行く手にです。ね、怖いものも無からなければ、困ったことがないという事が分かってくる。いよいよ、神様を信じられる。神様との間の、本当の交流が出来る。次々と、良いものが生み出されていく。ね。それが、力であり、光であり、ね。おかげである。どうぞ一つ、やはりなんにでも、一つの過程と言うものがある。
ですから、どうでも一つ、祝福を受けられるようなおかげを一つ、頂きたいと思う、みんなに。ね。ですから、本当に信心を負うたもの同士、いわゆる、本当に信心、例えば、信心友達が、そこに難儀があると致しましょうか。そらもう本当に、おめでとうございますと、こう言わなんところです。もう、言えれるような中に、一つ、育って行きたい。例えば、私が、ある難儀なお届けをさせてもらう。はぁ、おかげ頂いた、はぁ良かったのと、まぁ私は、心の中で手をたたきよると言うような意味も、それなんです。
もう、先生、おかげ頂いてから、もう赤ちゃんが出来そうです。そら困ったこつじゃあるのち、私は言う訳にはいかん。そらもうおかげ。まして難産のおかげにはならん。しっかりやらんのと、こういう事になるでしょうが。ね。流産にどんしちゃならんばい。どうぞ一つ、良いものを生みなしていくためにです。只今、私が申します。いよいよ、神様を信ずる力を鍛うていく。そして、一切が、そこにおかげと、おかげと心得られるだけの信心を頂いていきたいと思うですね。
どうぞ。